セックスと理想の話。

地獄に一緒に堕ちてくれる男と、泥にまみれるようなセックスがしたい。

 

雨宮まみって作家の「東京を生きる」って作品のから引用なんだけど。特に好きでもないから、このエッセイストが亡くなっていることを後から知っても特に心は動かなかった。

 

でもこの言葉だけは割りと心に残ってて、この本を捨てられなかったりする。

 

好きな人とのセックス、きわどいセックス、危ういセックスそんなものをやってみても満たされなくて、何の説得力もなくて信じられるものはなかったっていう帰結から、冒頭の引用にたどり着いたって話みたい。

読んだとき思ったことは、たかが一回セックスした女と地獄になんて落ちられるか、冗談じゃない。地獄には一人で落ちろって。

 

でも今思うと何となく言いたいこともわかる気がする。

 

俺は自分で言うのもあれなんだけど、昔からルックスも悪くなくて、女性に対して浅い共感をする言葉をかけるのは得意で、求めなくても、求められることがあり、要するに女に困ることもなく、求められたことに応えてたら結果的にそれなりの遊び人みたいになった。

 

みたいな過去が五年くらい前にあって。

 

そのときの価値観としての、セックスはただの暇潰しで、したいって言われるし、こっちも悪い気はしないからやっとくかってそんなもんだった。

 

今その過去がすごい後悔だったりして、決別したい。忘れたい。無かったことにしたい。セックスとはもっと高尚で美しいものであるべきと。そんな風に思う。

そー考えると、矢印は自分の体や作法に向く。

美しい体を作り上げ、パートナーとなる女性に礼儀ある作法でのぞむ事こそが、セックスの真理であると。

 

まぁそんなこともあり、今ではネタにしているが1年くらい前にEDを、患ってた時期があった。笑

こんなに汚い体で行為にはのぞめないと。

当事パートナーもいなかったし特に問題も無かったし、ほっといたら治ったんだけど。

 

ただ、今でもその感覚は少し残ってて、美しくない体を人に見せることには抵抗がある。

また、自分の醜い欲求で、最愛の人を汚し、蹂躙することなんてすべきではない。

 

相手の体を慈しみ、壊れやすい陶器のように扱うことこそが愛のあるセックスだと。

 

そんな風に考えていて、自分の欲望は、禁欲という美徳を求めるようになった。

俗としての欲を捨てて、理性的で美意識の高い性のあり方を考えるようになった。

 

それこそが、愛であるべきと思うようになった。

 

だからこそ、地獄に一緒に堕ちてくれる異性と泥にまみれるようなセックスがしたい。

 

恥も外聞もなく、そんなこととを口に出す人間の言葉が心に残ってるんだと思う。

 

いつだって一人だ。一人でも生きていける強さがあるから、他者を愛することができる。

 

この考えは間違ってるだろうか?

正しさを証明するために、苦しんででも自分の理想に近付きたいと思う。

 

そーやって生きてきたし、これからも生きていきたい。

ただ、時々弱さが出てきて地獄に墜ちてしまえば楽になるのに。

 

そんなことを考えるけど、まぁまだ大丈夫。

再起不能に壊れるまでは理想へ進んでいきたい。

 

そして、ほんとに壊れたときは地獄には一人で堕ちる。

それが自分の強さであり、最低限のプライドだと思う。