習慣とコミュニケーションの話
意外に読んでる人が多いため、更新がんばろうと思ったので書きます。
ちなみにブログを始めた理由については一回目の記事に記載しておるよんと。
また、メンタリストうんぬんの話を最近しているが心理学の専門的な知識はたつぼんにはない。
本ブログで記載してるのは彼らの動画を見たあくまでもただの感想である。
心を読むと言うがそもそも心なんてものはないし、人は精神状態や気分に応じて臨機応変に判断し物事を適宜判断しておりそこに一定の法則を見出すというのは、ナンセンスだ。
同じ人間が同じシチュエーションでも違う判断をするなんてことはよくある。
よってたつぼんは人の心を読んだり精神状態を分析することはできない。
が、ある程度親しい人の置かれている状況ちょっとした気分の上がり下がりは大まかには分かる。
その根拠とほんの少しの見抜き方について話をする。
人の生活とはほぼ習慣でできている。
特に規律正しく、切り替えやオンオフをしっかりやってる人のは特に分かりやすい。
例えばたつぼんはサラリーマンである。土日休みである。この事を知ってる人からするとたつぼんは平日の朝~夕方頃までは仕事をしている事が分かる。
当たり前の話だがこれを推し進めて行くとほぼ全ての人は同じ行動パターンで日々を送っている。
何時頃にゲームをしており、何時頃にTwitterを開く、何時頃にメールやLINEの返事をする。ダラダラ返事を書くタイプか?まとめて書くタイプか?全て習慣がある。
ある程度親しい人と言うのはこの習慣を把握できる程の間柄であるということである。
それさえ分かれば例えばお客様の電話に繋がりやすい時間帯や、意中の異性からLINEが返ってきやすい時間帯というのが分かるし、相手の迷惑にかからないタイミングや言葉の掛け方と言うのが分かってくる。
こんな話がある。海外で毎日ピザを注文するひとがいた。ある日その人からピザの注文がなかった。不審に思った配達員が様子を見に行くと、その人は自宅で倒れていた。発見が早かったために一命を取り留める事がてきたと。
要するにこれだ。ある程度親しい間柄の相手に適切な関心を向けていれば相手の状況や気分の上がり下がりを予測することは出来る。
やりすぎるとネットストーカーなので注意しよう。
某人気声優のSNSの更新内容からその声優の生理周期を予測する卒業論文が少し前に話題になっていたが、どう考えてもそれはやりすぎである。しかし、見る人が見れば分かるものは分かってしまうのも事実である。
話を戻すが、どの時間帯にどんな言葉をかけるかは、当人の気遣いや声掛けのセンスによるものだが、分かっててかける言葉と分からずにかける言葉では意味やつたわり方も違ってくる。
しかし、ここで分かるのはその人の習慣である。習慣が乱れておれば多忙か、何かイレギュラーが発生していると、なら少し誘いを控えようかと。習慣を把握し、大切な人や大切なお客様の状態を理解してあげられる人になれると良いなあと思うが、人というのはあまり監視されてる感を与えられると不快に感じる。見えていても見えていない振りをしたり、勘違いした振りをするのもまた気遣いである。
(余談だが気遣いの本質は相手の立場で考えるでは不十分だ。なぜなら相手の立場に立った所で判断する主体が違えば求めるものも違ってくるからだ。腹が立つ事があって、相手をぶん殴る人もおれば、静かに怒る人もいる。相手の立場で考えるではなく、相手になりきって考えるが重要だ。はい。長い余談終わり。)
たつぼんは相手の状況や大まかな気持ちの動きが見えていても何と声をかければ良いか分からないことがある。相手の状態は手に取るように分かるが手のさしのべ方や助け舟の出し方が分からない。また出さない方が良いこともある。
それらの判断は相手を知り、相手の事を真に考えなくてはならず、習慣を見極める事より遥かに難しい。
が、やはりそのきっかけはコミュニケーションだ。
コミュニケーションについて私見を話すと、コミュニケーションとは言葉の解釈であると思う。
例えば、女性に好きなタイプは?ときくと
決断力のある人だと言う。
しかし決断力とはなんだ?
優柔不断と呼ばれる人がいるが、彼らは消極的に決断をしないという決断をしているとも言えるし、自信満々にズレた決断をしまくる奴もいるだろう。
彼女もそれは想定していないはずだ。
よって、決断力のある人という言葉では、共通認識を形成することはできない。生きた言葉にしていくには、相手と自分の間で言語の同期が必要である。
そのためには具体例をあげつつ、イメージを共有しなくてはならない。また経験を共に積んでいかなくてはならない。そうして帰納法に共通認識がうまれる。
稀に同じ言語を使う人に巡り合えることがあって、そんなことがあるとあら素敵、この人は私の運命の人ねと思えたりすることもあるのだが、それはマレだ。いわゆるビビッときたってやつだ。
が、これも人によりけりで5年同じ職場で話をし続けても同じ言語を共有できない人もおれば、一夜で同期が完了することもある。
たつぼんが心掛けているのは、自分の言葉をほぼ誰もが理解できる言葉に置き換える事だ。
たつぼんは割とよく喋る人であるがそれこのためだ。私はこの言葉をこーゆー意味で使いましたが分かりますか?分からないなら別の説明をしますねをしていると必然的によく喋らくてはならなくなる。
一方双子の兄とは、いわゆる双子言語のようなものがあるため、
お前さ、あれは?
それはあれだろ!
あー、でもさー?
あーおけおけ。
↑これだけで全ての会話が成立したりする。家族間だと、あれ取ってが醤油だと伝わる的なものだ。
と、少し話しはそれたが解釈により共通の言語を使えるようになれば分かり合えた感は生まれ、関係はより親密になる。
また、求めるもの求められるものも分かる。
さらに、相手の習慣も理解しておれば完璧だ。
と、ここまで読んで貰ってありがたいのだご、このブログも申し訳ないがあえてたつぼん語で書かれている。大学の論文書く時は口語体うんぬんは置いといたとしてもこんな書き方はしない。
と、まあすらすら読んで咀嚼できた人はたつぼんと言語的な同期はある程度できているということだ。
ぜひ、みなまで言わんでもお前の言いたいことは分かっとるわいと言ってくれ。
過去何回かのブログではそもそも人の性格って一概に言葉で言い表せないよねという話をした。また、好きなタイプは?と聞かれて平気で矛盾した事を言う事があるよねという話をした。
言葉では言い表せないことが多い。また言い表せたとしても、それを他者に伝えるには別の言葉を使わなくてはならない。途方のない作業である。
さらに、同じ言語を共有できたとしても友人、恋人として相性がいいとも限らない。
旦那の言う事は1つも分かりませんけど、私は幸せですよなんてニコニコしながら言うおばあちゃんがいるだろう。
これも愛だから不思議だ。
と、まぁこの手の答えのないテーマについて考察していく事を人生通して続けてきているのだが、その事と実生活はなんの関係もなかったりする。
理解できないことがあっても仕事はできるし、遊びにも行けるし、食事もできる。
その合間のふとした時に考える。
俺はそんな習慣で生きている。